2021/06/21 13:20

近い将来、小学校で日本語コーチングを学ぶ時代がくるかもしれない


日本語話者のもとで育つ、あるいは生まれつき日本語が飛び交う環境下にいたからといって、外国人に日本語を教えられるとは限らない。ましてや基礎的な文型から体系的に知識を積み上げる、類似文型の微妙なニュアンスの差を現時点における日本での使用状況に沿って伝えることはノウハウや工夫が要り、日々アップデートされている。日本語話者にとっての「当たり前」を「当たり前でない」外国人にもわかってもらうことに、日本語教師は格別の誇りを持っている。

 

そうしたプロ意識に水を差すようではあるが、日本語教師か否かにかかわらず誰もが、ごく初歩的な日本語を外国人にレクチャーするスキルを求められる時が、近い将来訪れるとわたしは予想している。理由は2つある。

 

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一つ目、これは最も大事だが、日本語教師を本来なら対応しなくてもよい業務から解放するのが目的だ。文型指導や会話練習の相手、学習計画の作成に、学習上の悩み相談相手。どれも日本語教師のスキルと個性を発揮する場だ。

一方、「日本の外出先で心無い言葉を浴びせられた」「日本語レベルが足りなくて低賃金のアルバイトにしか採用されない(必要なお金のために長時間働きたいが28時間ルールでは到底無理)」「日本語学校以外でも日本人の味方がほしい」という学生さんのフラストレーションを受け止めるのも、現状では日本語教師の業務内容となっている。

困っている学生さんに何とかしてあげたいと思う日本語教師は時に、本来なら日本語学校外で提供されるべきサポートの不足を穴埋めしようとする。これでは日本語教師は疲弊し、日本語教師のスキルでしか遂行できない業務に集中できない。

 

外国人支援機関を増やすべきなのだろうか。それもあるかもしれないが、最優先の解決策ではないと思っている。支援機関を増やしたところで、外国人がなにかあるたびに限られた支援機関に逐一相談しなければならない限り、外国人にとってそうした居住環境は不便でしかない。また、外国人が抱える問題はたいてい、日本語話者とのコミュニケーション上で起こっている。

 

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それなら、どの日本人でも外国人に最低限のサポートができるスキルを持つのが一番の解決策なのではないだろうか。特に、場所に応じて必要な日本語でごく簡易なものをコーチングできれば、言語の制約で低賃金のアルバイトにしか就けない問題の解消に近づく。例えば英語で道案内する延長線上で、日本語のコーチングを子供に学ばせるのはどうだろう。

まとまった文章の読解に少しずつ慣れてきた小学校中学年ぐらいから、国語あるいは総合学習の時間で同世代の外国人を招待し、日本で使う言葉を思い思いに説明させる。前後半制にして、相手の言葉も教えてもらう。できれば11が望ましいが、日本人児童2~3人対外国人児童1人でもいい。日常生活での言葉でもよいが、コンビニでのアルバイトやスポーツのルールなど、成人後に遭遇するだろう場面を想定した訓練もほしい。感染症の問題がなければ、おもちゃのお金を使った模擬店を共同で開くのもいいだろう。注意点は、自分の言語について説明する際「教えてやっている」という姿勢にならないようにすることだ。

 

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日本人児童にもメリットはある。冒頭でもふれたように言語を教えるスキルの大部分は「『当たり前』を『当たり前でない』人にもわかってもらう」ことであり、これは日本語教育に限らずどの分野でも必要なスキルだ。このスキルを小学校の段階から磨き始めてほしいという世論が起こるだろうというのが、「一億総日本語コーチング時代」をわたしが予想する第二の理由だ。

小学生に「やさしい日本語」について考えさせる機会を提供することにも価値がある。やさしい日本語で伝えようとするときは、一番伝えたい内容がダイレクトに伝わるように言葉を選び、文を組み立てることが必要だ。こうした練習を「やさしい日本語」で行い、だんだんいつもの日本語にも応用するようになれば、文章構成力向上につながる。

わたしも含め、4年制大学卒でも伝わる文章の作成に苦労する日本人は一定数存在する。子どもの頃に「『当たり前』を『当たり前でない』人にもわかってもらう」経験があれば、もう少し違ったのかもしれない。日本語を教える体験は、日本人自身の能力向上にもメリットがあるのだ。

 

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近い将来、日本語教師の負担を減らしより専門性の高い業務に集中できるようにするべきだ、という声が増えてくるだろう。同時に、「『当たり前』を『当たり前でない』人にもわかってもらう」スキルを子供のうちから磨き始める必要性は、今以上に叫ばれるだろう。この2つを同時に解決する策として、小学校から日本語コーチングを勉強する時代が来ると、わたしは予想する。